毎朝、玄関に誰かの靴があった

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一人暮らしを始めた部屋に、毎朝知らない靴が並んでいた。増えていく靴の数と、誰かがそこにいた痕跡の意味を、私はずっと気づかないふりをしていたのかもしれない。

一人暮らしを始めたのは、二十四歳の春だった。

就職して三年目、ようやく貯金が少し貯まったタイミングで、職場から電車で三十分ほどの町に部屋を借りた。県境に近い、古くからの住宅街が広がる静かな場所だった。築二十年を超えているけれど、リフォームされていて内装は綺麗だったし、なにより家賃が安かった。不動産屋の担当者は「前の入居者が長く住んでいた部屋ですから、落ち着きがありますよ」と言った。その言葉が、妙に頭に残った。

玄関は狭かった。たたきに靴が三足も並べれば、もうそれ以上は置けないくらいの広さだった。私はパンプスと運動靴と、部屋履きのスリッパだけを置いた。それが最初の状態だった。

おかしいと思い始めたのは、引っ越してから十日ほど経った朝のことだった。

目が覚めて、顔を洗って、出勤の準備をしながら玄関に向かったとき、見慣れないものが目に入った。私のパンプスの横に、黒いローファーが一足、揃えて置いてあった。女性ものに見えたけれど、私のサイズより一回りか二回り大きい。

最初は自分のものだと思った。引っ越した直後は荷物の整理が追いつかなくて、どこに何をしまったかわからなくなることもあったから。でも、私はローファーを持っていない。仕事にも、プライベートにも、そういう形の靴は一足も持っていなかった。

玄関の鍵は確かに閉めて寝た。ドアにも異常はない。窓も全部施錠していた。誰かが入ってきた形跡は、どこにもない。

気持ちが悪かったけれど、その日は捨てることもできず、ひとまず玄関の隅に寄せて出勤した。帰ってきたとき、ローファーはまだそこにあった。

しばらくそのままにしていたら、一週間ほどで気にならなくなった。自分でもおかしいと思うけれど、人間というのは不思議なもので、毎日同じ場所に同じものがあると、それが「あって当たり前」になってしまう。いつの間にか、ローファーは私の靴の並びに溶け込んでいた。

二度目に気づいたのは、それからさらに二週間ほど後だった。

朝、玄関を見たら、ローファーの隣に茶色いサンダルが置いてあった。レザー調の、やはり少し大きめの、古びた感じのサンダルだった。

さすがに今度は声が出た。小さく「え」と言って、その場に立ち尽くしてしまった。鍵は閉まっている。窓も問題ない。泥棒が靴を置いていくとか、そんなことがあるわけがない。それでも、現実として、私が知らない靴がまた一足増えていた。

その日は警察に電話しようかと思ったけれど、何を言えばいいのかわからなかった。「靴が置いてあります」それだけでは取り合ってもらえない気がして、結局やめた。管理会社に電話して、鍵を変えてほしいと伝えた。担当者はすぐに動いてくれて、二日後には新しい鍵になった。

それで解決すると思っていた。

ところが、鍵を変えた翌々朝、玄関にはまた知らない靴が増えていた。

今度は白いスニーカーだった。くたびれた感じの、薄汚れた白。ゴム底が少し剥がれかけていた。サイズは、やはり私より大きい。

私は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。鍵を変えた意味がない。窓を全部確認したけれど、どこからも侵入した形跡がない。もう、どうやって入ってきているのか、まったく見当がつかなかった。

管理会社に再度電話して、事情を説明した。担当者は困惑した様子だったけれど、「一度、建物の合鍵を含めて全部確認します」と言ってくれた。でも調査の結果、合鍵の管理に問題はなかった、と言われた。念のため防犯カメラを玄関の内側に設置することを勧められて、小型のものを購入して取り付けた。

カメラを付けてから一週間、靴は増えなかった。

ようやく落ち着いたかと思って、少し警戒を緩め始めた頃だった。

朝起きて、いつものように玄関を確認しようとしたとき、なんとなく靴の数を目で数えた。私のパンプス、運動靴、スリッパ、ローファー、サンダル、スニーカー。それから、もう一足。

黒いヒールのパンプスが、端に静かに並んでいた。

私は震える手でスマートフォンを取り出して、カメラのアプリを開いた。録画された映像を確認した。前の夜から今朝にかけて、玄関には誰も映っていなかった。廊下も、玄関扉も、異常はない。ただ、映像の中では靴の数が六足になっていた。

その瞬間、ぞわっとした。靴は「映っていない」のではなく、最初からそこにあったように、何事もなく「ある」のだった。

私は少しだけ考えて、あることに気づいた。

靴が増えた日の朝、自分が何時に起きたかを振り返った。最初のローファーが現れた日は、六時ごろ。サンダルは六時十分ごろ。スニーカーは六時少し前。ヒールのパンプスは、六時ちょうど。

そういえば、玄関を「最初に」見たのはいつも、起き抜けに顔を洗う前だったろうか。私はそのとき、本当に「最初に」見ていたのだろうか。

記憶が、少しぼやける。

怖くなって、その週末に友人を呼んだ。事情を話したら、最初は半信半疑だったけれど、玄関に六足の靴が並んでいるのを見て、さすがに顔色が変わった。「あなたのじゃないやつ、全部捨てようよ」と言われて、一緒にゴミ袋に入れた。ローファー、サンダル、スニーカー、ヒールのパンプス。四足まとめてゴミ置き場に出した。

その夜は友人に泊まってもらった。朝、二人で玄関を確認した。私のパンプスと運動靴とスリッパ、三足だけが並んでいた。友人は「よかった、気のせいだったんじゃないかな」と笑った。私も笑った。

友人が帰った翌朝、玄関にはローファーが一足、また置いてあった。

そこで初めて、私はあることを思い出した。引っ越してきた日に、不動産屋の担当者が言っていた言葉だ。「前の入居者が長く住んでいた」。

気になって、管理会社に聞いた。前の入居者はどんな人だったか、聞いてもいいですかと。担当者はしばらく沈黙してから、「一人暮らしの女性の方でした」とだけ言った。「いつまで住んでいたんですか」と聞くと、「少し前まで」と答えた。「少し前って、どのくらいですか」とさらに聞くと、「詳しくはちょっと……」と言葉を濁した。

私はそれ以上聞けなかった。

あれから数ヶ月が経った。靴は今もときどき増える。決まったペースではなくて、三日に一度のこともあれば、二週間空くこともある。私はもう捨てるのをやめた。捨てても意味がないとわかったから。今は玄関の隅に、ひとかたまりにして寄せている。

一つだけ、気になっていることがある。

靴の数は増えても、減ることはない。でも先週の朝、数えたら一足足りなかった。白いスニーカーがなくなっていた。

どこに行ったのか、わからない。

私は今日も同じ時間に起きて、顔を洗って、玄関を確認する。靴の数を声に出さずに数える。それが、いつの間にか朝のルーティンになっていた。

不思議なのは、その作業をしているとき、私がほとんど怖いと感じていないことだ。慣れたのかもしれない。あるいは、慣れることを誰かに望まれているのかもしれない。

ただ一つだけ、どうしても拭えない感覚がある。

靴を数えながら、ふと顔を上げたとき、玄関の奥のたたきに、うっすらと泥の足跡が残っていることがある。外から入ってきた跡ではなく、部屋の奥に向かって続いている、足跡。

でも私が奥に確認しに行くと、いつも、何もない。

そして足跡も、気づいたときには消えている。

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