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毎晩、隣の部屋から挨拶が来た | 不可解ノート

毎晩、隣の部屋から挨拶が来た

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引っ越して間もない部屋で、壁越しに隣人から声をかけられる夜が続いた。おかしいのは、挨拶のたびに、俺の記憶から何かが消えていったことだった。

あの部屋に越してから、だいたい三ヶ月後のことだと思う。「だいたい」と言うのは、正確な時期を俺が覚えていないからだ。というより、覚えていられなかった、というほうが正確かもしれない。

その部屋は、県境に近い古い住宅街の一角にある、二階建てアパートの一階だった。家賃が安く、駅からそこそこ歩くけれど悪い物件ではなかった。築年数は不動産屋に聞いても「かなり古いですね」としか返ってこなかった。廊下の端に郵便受けが並んでいて、俺の部屋は102号室。隣の103号室との壁は薄く、引っ越し初日から生活音が筒抜けなのはわかっていた。

最初に声を聞いたのは、入居して三日か四日、経った頃だったと思う。夜の十一時を少し過ぎた時間帯で、俺はすでにベッドに入って天井を眺めていた。新しい環境は思ったより神経に響いて、なかなか眠れない夜が続いていた。

壁の向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。

「おやすみなさい」

それだけだった。音量は小さく、テレビか何かの音かとも思ったが、妙にはっきりした声だった。性別がよくわからない。低くもなく高くもなく、ただそのひと言だけが、壁を通して届いてきた。

俺は少し身構えたが、隣の住人が電話でもしているんだろうと判断した。それ以上は何も聞こえなかったし、翌朝になれば忘れていた。

次に聞こえたのは、それから二日後だった。同じく夜の十一時過ぎ、同じ「おやすみなさい」というひと言。今度は少しだけ長く耳を澄ましたが、返事をする声は聞こえなかった。電話でもなく、誰かと話しているわけでもなさそうだった。

気になりはしたが、毎晩のことではないし、特別怖いとも思わなかった。変わった人が住んでいるんだな、くらいの認識だった。

問題に気づいたのは、それから少し経ってからだ。

俺には学生時代からの友人が何人かいて、月に一度か二度、近くで飲んだり飯を食ったりする習慣があった。その頃もそれは続いていたはずで、スマートフォンの予定帳にも記録が残っていた。ところがある朝、久しぶりに連絡を取ろうとして、友人の名前をど忘れしていることに気づいた。

下の名前が出てこない。顔は浮かぶし、一緒に旅行した記憶もある。ただ、名前だけがすっぽり抜けていた。

スマートフォンの連絡先を見ればすぐわかることだったし、実際そうした。名前を見ればすぐに「そうだ、こいつか」と思い出したが、少し嫌な感じが残った。疲れているのかな、とそのときは思った。

声が聞こえる頻度は、その頃から少しずつ上がっていったように思う。二日に一度だったのが、一日置かずに聞こえてくるようになった。いつも同じ時間帯で、いつも同じひと言だった。「おやすみなさい」。それだけで、それ以外は何もない。

俺はある夜、思い切って壁を軽くノックして「おう、おやすみ」と返してみた。馬鹿みたいだとは思ったが、なんとなくそうしたかった。壁の向こうはしばらく静かで、それきり何も聞こえなかった。

翌朝、俺は昨夜の出来事を会社の同僚に話そうとして、途中で詰まった。職場に五年いる同僚の苗字が出てこなかった。顔も、声も、口癖も覚えている。隣の席で毎日顔を合わせる人間の名前が、俺の頭から消えていた。

今度はさすがに焦った。社員証を引っ張り出して名前を確認したとき、「あぁ、そうか」とは思ったものの、胃のあたりに鉛が落ちてきたような感覚があった。

それからしばらく、俺は自分の記憶を意識して確認するようになった。スマートフォンのメモ帳に、日付と一緒に「今日覚えていること」を書き留め始めた。友人の名前、職場の人間の名前、実家の住所、通い慣れたルート。当たり前のことを当たり前に書き記す作業は、最初は馬鹿らしく感じたが、やがてそれが必要なことなのだとわかってきた。

なぜなら、メモを見返すたびに、書いたはずのことを覚えていない日が増えていたから。

壁の声は、毎晩聞こえるようになっていた。

「おやすみなさい」

俺がノックを返した日から、声は少し変わった気がした。以前より近く聞こえる。壁のすぐ向こう、耳のそばに口を寄せているような距離感だった。俺は返事をするのをやめた。関わってはいけない、と思ったわけではなく、ただ何か、答えてはいけない気がした。

ある夜、俺は思い立って、103号室の住人について管理会社に問い合わせた。別に不審な点があるわけではないが、挨拶ぐらいしたいので、どんな方が住んでいるか聞けるか、という名目で。管理会社の担当は少し沈黙してから、「103号室は現在空室です」と言った。

俺は「え」と声を出した。

「しばらく前から空室になっていまして、入居者の募集もかけていない状況です」

俺は一度電話を切ってから、廊下に出た。103号室のドアの前に立つと、ポストのところを見た。名前の表示はなかった。郵便受けのスリットから中を覗こうとしたが、ちょうど表から見てもわからない角度になっている。ドアに耳を当てると、音はしなかった。においもしなかった。静かだった。

俺は自分の部屋に戻って、メモ帳を開いた。そこには確かに、つい一週間前に「103号室の住人、夜に挨拶してくる」と書いてある。俺自身が書いた文字で。

その夜も、声は聞こえた。

「おやすみなさい」

俺は布団をかぶったまま、動かなかった。声は壁の向こうから、いつもと同じ抑揚で届いてきた。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、挨拶だけがそこにある。

翌朝、メモ帳を開いた俺は、少し手が止まった。前日の分に「103号室は空室と確認」と書いてある。ここまでは読めた。ただその下に、自分の筆跡でこう書いてあった。

「いつからだったか、もう思い出せない」

俺には、それを書いた記憶がなかった。

それからしばらくして、俺はその部屋を引っ越した。引っ越しの理由は、今でも自分ではうまく説明できない。怖かった、というのが一番近いが、何に対して怖かったのかが言葉にならない。気づいたら荷物をまとめていた、というのが正直なところだった。

新しい部屋に移って、最初の一週間ほどは、夜になるたびに壁に向かって耳を澄ませた。もちろん、声は聞こえなかった。当たり前だ。

ただ一つだけ、今でも引っかかっていることがある。

引っ越しが終わった日、荷ほどきをしながら連絡帳アプリを整理していて、俺はあることに気づいた。以前の部屋に越す前まで、定期的に飯を食いに行っていた友人グループの連絡先が、一件だけ消えていた。名前も、アイコンも、履歴も何もない。グループのトーク履歴を遡ると、その人物が送ったはずのメッセージだけが「退出しました」という表示に置き換わっていた。

俺には、誰が消えたのか、もうわからない。顔も思い浮かばないし、名前も出てこない。ただ、かつてそこに誰かがいたという、形だけが残っている。

メモ帳には、あの部屋でのことが断片的に書き残されている。けれど読み返すたびに、書いてある内容と自分の記憶が一致しなくなっている気がする。先週読んだときと、今日読んだときで、同じ文章なのに印象が違う。

俺は今も、毎晩寝る前に今日のことをメモに書いている。名前、顔、場所、今日あったこと。馬鹿みたいだとは思う。

でもやめられない。

やめたら、また何かが消えてしまう気がして。

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