職場の隣の席に、いつも誰かの荷物が置いてある。でも、その席には誰も座っていない。気にしないようにしていたが、荷物はある日から、少しずつ変わり始めた。
これは、私が二十代の後半に勤めていた会社での話だ。
その会社に転職したのは、春の終わり頃だった。社員が三十人ほどの小さな事務所で、フロアはひとつ、島型に並んだデスクが四列あるだけのシンプルなオフィスだった。私の席は窓際の列の、中ほどに割り当てられた。
初日、自分の席に座って周囲を見渡したとき、ひとつだけ妙なことに気がついた。
私の真隣、右側の席に、荷物が置いてあったのだ。
紺色のトートバッグと、小ぶりなポーチ。どちらも使い込まれた様子で、机の上ではなくデスクの脇、床に立てかけるようにして置かれていた。椅子はきちんと引き戻されていて、デスクの上には何もない。パソコンもない。名札もない。
誰かの席なのだろうと思った。席を外しているだけで、そのうち戻ってくるのだと。
ところが、その日の終業時刻になっても、その席に人が来ることはなかった。荷物はそのまま、床に置かれていた。
翌日出勤しても、荷物は同じ場所にあった。三日目も、四日目も、変わらなかった。
同じ島の先輩社員、田辺さんという四十代の女性に、さりげなく聞いてみたことがある。「あの席、誰かの席ですか」と。田辺さんは一瞬だけ私の隣の席に目をやってから、「ああ、前の担当者の荷物じゃないかしら。もう何か月も来てないんだけど、荷物だけ残っちゃってて」と言った。それ以上は教えてくれなかった。聞いてはいけない雰囲気だったので、私もそれ以上は掘り下げなかった。
退職した人の荷物が残っている。それだけのことだと、最初はそう思っていた。
でも、一か月ほど経ったある朝のこと。
出勤して席に着いたとき、なんとなく目が止まった。荷物の位置が、変わっていた。
最初は紺のトートバッグが右、ポーチが左という順番で置かれていたはずだったのに、それが逆になっていた。バッグが左で、ポーチが右。見間違えかと思ったが、私はわりと細かいところが気になる性格で、毎朝なんとなく視界に入れていたその荷物の並び順を、意外なほどはっきりと覚えていた。
清掃の人が動かしたのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、その日はそれで終わりにした。
だが、翌週の月曜日、今度はトートバッグの持ち手の向きが変わっていた。
もともと、持ち手は壁側に倒れた状態で置かれていたのに、今度は通路側を向いて、少し開いた状態で立っていた。中が少し見えた。折り畳まれたエコバッグらしきものと、何か紙の束。それだけだった。
その翌週は、ポーチの位置が数センチだけ前に出ていた。
荷物が、少しずつ変わっている。
気にしすぎだろうか。自分でもそう思おうとした。でも、そう思おうとすればするほど、毎朝出勤して席に着くたびに、隣の荷物を確認する癖がついていった。どこかが変わっていないか。どこかがずれていないか。
そしてある朝、ポーチのファスナーが開いていることに気がついた。
前の晩は閉じていた。私はそれを確認している。退社前にふと目に入ったとき、ファスナーはきっちりと閉まっていた。なのに、翌朝出勤したら、半分ほど開いていた。
中には、リップクリームと、折り畳まれたレシートと、小銭入れのようなものが見えた。
誰かが、夜の間にこの荷物を触っている。
そう思ったとき、背筋が冷たくなった。でも同時に、もっと怖いことを考えてしまった。
触っているのは生きた人間だとしたら、それは誰なのか。夜中にオフィスに入って、この荷物を触っていく人間がいるとしたら、何のためなのか。
あるいは、生きた人間ではないとしたら。
そこから先は、考えないようにした。
田辺さんにもう一度だけ聞いてみた。前の担当者というのは、なぜ来なくなったんですか、と。
田辺さんはしばらく黙っていた。それから、「病気らしくてね」とだけ言った。「詳しくは、聞いてないのよ」。
それ以上は何も言わなかった。私も、それ以上は聞かなかった。
その週の金曜日の夜、残業をしていたのは私と田辺さんだけだった。他の社員はみんな先に帰っていた。
私がパソコンの画面を見ながら作業をしていると、田辺さんが向かいの席から、低い声で言った。
「ねえ」
顔を上げると、田辺さんはまっすぐに私の隣の席を見ていた。
「あの荷物、今日は床じゃなくて椅子の上にあるよ」
私は隣の席を見た。
確かに、そうだった。いつもは床に置かれていた紺のトートバッグが、椅子の上にあった。座面の上に、そっと置かれるように。
私は昼間からずっとそこにいたのに、気がつかなかった。いつ移動したのか、わからなかった。
田辺さんはそれきり何も言わなかった。私も何も言えなかった。二人でしばらく、その荷物を見ていた。
翌週の月曜日、私は出勤して席に着いたとき、最初に隣の席を見た。
荷物がなかった。
トートバッグも、ポーチも、どこにもなかった。椅子も、きれいに何もない状態で引き戻されていた。デスクの上も、床も、まるで最初から何もなかったかのように、きれいに空になっていた。
田辺さんに視線を向けると、田辺さんもちょうど私の方を見ていた。目が合った。田辺さんは何も言わなかった。私も何も言わなかった。
その日の午後、総務の人が来て、隣の席のデスクを拭き、パソコンを運び込んだ。
翌日、その席に新しい社員が配属された。私と同い年くらいの、おとなしそうな女性だった。
初日の挨拶で、彼女は「よろしくお願いします」と言って、軽く頭を下げた。私も「よろしくお願いします」と返した。
それだけだった。何も起きなかった。
ただ、彼女が席に着いたとき、椅子を引いて腰を下ろす前に、一瞬だけ、座面をじっと見つめた。何かを確かめるように。それから静かに座った。
気のせいかもしれない。本当に、ただの癖なのかもしれない。
でも私は今でも、あの荷物のことが頭から離れない。
椅子の上に置かれた、あの紺のトートバッグのことが。
誰が、なんのために、あそこに置いたのか。荷物の持ち主は、本当に来ていなかったのか。
前の担当者が病気だと、田辺さんは言った。それ以上は何も聞いていない。今も知らないままだ。
私はその会社を、一年ほどで辞めた。理由は別のところにあったが、あの席の隣に毎日座り続けることに、ある種の疲労感を感じていたことも、正直なかったとは言えない。
退職のあいさつをした日、田辺さんは「お疲れ様でした」と言って、軽く手を握ってくれた。その手は、少し冷たかった。
帰り際、ふと振り返ったとき、窓際の席がちらりと見えた。
新しく来た彼女は、もう帰ったあとだった。
椅子には、何も置かれていなかった。
ただ、床に、紺色のトートバッグが立てかけてあった。
その日はもう、誰にも何も聞かなかった。

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