誰もいないはずの時間に、給湯室から水の流れる音がする。それが気になりだしてから、私は職場のある「事実」に少しずつ気づいていった。
これは私が以前勤めていた会社でのことで、もう五年ほど前の話になる。
当時、私はとある中小の卸売会社に勤めていた。社員数は二十数名ほどの、こぢんまりとしたオフィスだった。フロアは一棟のビルの三階全体を借りていて、エレベーターを降りてすぐ受付、奥に向かって事務デスクが並び、いちばん奥に給湯室と、小さな会議室が二部屋あるという、ごく平凡なつくりだ。
給湯室というのは、縦長の細い部屋で、入り口から見て右手に流し台とコンロ、左手に冷蔵庫と棚が並んでいた。照明は引っ張り式のひも付きの蛍光灯が一本あるだけで、使わないときは消しておくのがルールになっていた。
最初に音に気づいたのは、入社して半年ほど経った頃だったと思う。
その日は月末の締め作業が長引いて、気づけばオフィスに残っているのが私一人になっていた。デスクに向かって数字を打ち込んでいると、奥の方から、かすかに水の流れる音が聞こえてきた。
最初はエアコンの排水かと思った。ビルが古かったので、配管の音がよく鳴るのは知っていたからだ。でも、しばらく耳を澄ませていると、それは明らかに蛇口から水が出ているときの音だった。細く、絶え間なく、さらさらと続いている。
誰かまだいたかな、と思って立ち上がり、給湯室に向かった。引き戸を開けると、照明は消えていて、真っ暗だった。でも確かに音がする。手探りでひもを引いて明かりをつけると、蛇口が少し開いていて、細い水が流しに落ちていた。
誰かが閉め忘れたのかな、と思ってしっかり締めて、そのまま仕事に戻った。
それだけなら、何ともない話だ。
問題は、それが一度で終わらなかったことだ。
月に二回、三回と、残業をしていると同じことが起きた。必ず、オフィスに自分一人になった後、あの細い水音がする。確認に行くと、蛍光灯は消えていて、でも蛇口が少し開いている。
同じ部署の先輩にそれとなく話したことがある。その人は「ああ、あの蛇口ね」と笑った。「パッキンが古いからよく漏れるんだよ。何回も総務に言ってるんだけどね」と言っていて、確かに蛇口の根元はうっすら錆びていた。だから私もそういうものかと納得して、一時は気にしなくなった。
でも、おかしいと思い始めたのは、ある木曜日の夜のことだった。
その日も残業で遅くなっていて、私が最後の一人だった。七時を過ぎた頃、例の水音が聞こえてきた。いつものことか、と思いながら給湯室に向かい、引き戸に手をかけたとき、中から微かに物音がした。
引き戸を挟んで、何かが動く気配。かさ、という、紙か布が擦れるような音だった。
私はしばらくその場で固まっていた。ゆっくりと引き戸を開けると、やはり真っ暗で、水音だけが続いている。明かりをつけると誰もいなかった。蛇口を締めて、足早にデスクに戻った。
それ以来、私は給湯室に一人で行くのが少し怖くなった。自分でも大げさだと思っていたけれど、どうしても、あの物音が頭から離れなかった。
転機になったのは、その年の秋のことだ。
新しく入ってきた派遣社員の女性、田辺さんという人が、私に小声で「ちょっといいですか」と話しかけてきた。入社して二週間ほどの人で、まだ遠慮がちな様子だった。
「変なことを聞くようなんですけど」と前置きして、田辺さんは言った。「あの給湯室って、夜に誰かいることありますか」
思わず、どういうことか聞き返した。
彼女によると、前日の夕方、就業時間の少し前に給湯室でお茶を入れていたとき、照明を消して出ようとしたら、すぐ後ろに人が立っていた気がしたという。驚いて振り返ったら誰もいなくて、でも確かに人の気配があった、と言うのだ。
「背中というか、首の後ろというか、そういうところが急に冷たくなった感じがして」
田辺さんは少し顔を赤くしながら、「幽霊とかじゃないですよね、きっと」と笑って誤魔化したけれど、目が笑っていなかった。
私は自分の体験を話すか迷ったが、余計に怖がらせても悪いと思って、「古い建物だから配管の音がするんですよ」とだけ言った。田辺さんは「ですよね」と言ってほっとした顔をした。
でも私は、その夜からもっとよく給湯室を観察するようになった。
気になったのは、水音が聞こえる時間帯のことだ。残業中に気づくので最初は夜の話だと思っていたが、よく考えると、私が残業で遅くなる日というのは、月末や特定の曜日に偏っている。記憶を辿ってみると、必ず「他の人が全員帰った後、私一人になってから一時間以内」に音が始まっているように思えた。
これは単なる偶然だろうか。
パッキンの劣化なら、誰がいようといまいと関係なく水は漏れるはずだ。でも私が誰かといるときに水音が聞こえた記憶は、そういえば一度もなかった。
もう一つ気になることがあった。
給湯室の棚に、マグカップや調味料と一緒に、小さなガラスの器が置いてあった。縁が少し欠けた、透明な豆皿のようなもので、いつからあるのか誰に聞いても「ずっとあった」としか返ってこなかった。その器の中には、いつも水が少し張ってあった。
ある朝、何となくその器を見たとき、中に小さな折り紙が入っているのに気づいた。白い紙を折って小さな舟のような形にしたものが、水に浮かべてあった。
誰かのいたずらかと思って、隣のデスクの同僚に「あの器の中のやつ、誰が入れたか知ってる?」と聞いた。同僚は首を傾けて「え、前からあったんじゃないの?あれって飾りじゃなかったっけ」と言った。
私には、昨日まであんなものはなかったという確信があった。でも誰に聞いても、ずっとそこにあったと言う。
その日の夜も残業になって、最後の一人になった。
しばらくして、水音が始まった。
今度は確認しに行くのを少し待った。音が聞こえ始めてから十分ほど、じっと耳を澄ましていた。さらさらという細い水音は途切れなく続いて、それだけだった。静かなオフィスに、その音だけが溶けていた。
意を決して給湯室に向かい、引き戸を少しだけ開けた。照明は消えている。闇の中で水音がする。
そのとき私は、引き戸を完全に開けるのをためらって、隙間から中を覗いた。
目が暗さに慣れてきたとき、流し台の前に、何かが立っているように見えた。
人のような輪郭で、でも透けているというか、そこだけ空気が違うような。
「気のせいだ」と自分に言い聞かせながら、照明のひもを引いた。
明かりがついた瞬間、そこには何もいなかった。蛇口から細い水が流れているだけで、棚の上のガラスの器には、白い折り紙の舟が浮かんでいた。
私は蛇口を締めて、そのままコートを掴んで帰った。
翌日、古株の社員の一人に、この部署で長く働いていた人がいたので、何となく話を向けてみた。あの給湯室って、何か変わったことがあったりしましたか、と。
その人は少し間を置いてから、「まあ、昔ね」と言った。
「うちの会社が今のビルに引っ越してくる前に、ここの三階にいた会社の人が、一人、あの給湯室で倒れたことがあったみたいでね。水をかけて顔を洗おうとして、そのまま急に意識を失って。発見が遅れてね」
結局どうなったか聞くと、その人は曖昧に首を振るだけだった。
「それ以来、あの蛇口は流しっぱなしにしとくのが習慣だったって、昔いた人が言ってたよ。水が流れていれば、気づいてもらえるから、って」
私はその言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
水が流れていれば、気づいてもらえるから。
それは一体、誰が気づいてほしかったのだろう。
結局、田辺さんはその年の契約が終わる前に辞めていった。理由は聞かなかったけれど、最後の日に「あの給湯室、やっぱり苦手でした」とだけ言い残した。
私もその翌年に転職して、その会社を離れた。
今でも、残業で一人になると、ときどきあの水音を思い出す。
静かなオフィスに、細く、途切れなく流れ続けるあの音。
誰かが蛇口を開けているのか、パッキンが劣化しているのか、あるいは別の何かが理由なのか、私には今もわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あのガラスの器の中に浮かんでいた折り紙の舟は、私が会社を辞める最後の日にも、まだそこにあった。
誰が入れたとも、誰が替えたとも、とうとう分からないまま。


コメント