引っ越してきたアパートで、毎晩同じ時刻に鳴り続ける呼び鈴。出ても誰もいない。それが始まったのは、前の住人の話を聞いた翌日からだった。
最初は、単純な誤作動だと思っていた。
その部屋に越してきたのは、三月の終わりだった。職場の近くで、家賃も手頃で、日当たりもそれほど悪くない。築年数はそこそこいっていたけれど、リフォームされていて内装は綺麗だったし、何より駅から歩いて七分という立地が決め手だった。不動産屋の担当者も感じのいい人で、契約のときも特に嫌な気分になることはなかった。
引っ越し初日は段ボールに囲まれたまま眠って、二日目の夜にようやく一息ついた。近くのコンビニで買ってきたお惣菜を食べながら、スマホで動画を見ていたとき、それが鳴った。
インターホンだった。
時刻を確認すると、ちょうど二十三時四分だった。こんな時間に? と思いながらも立ち上がって、モニターを見た。古いタイプのインターホンで、カメラはついていない。音だけが鳴る、シンプルなやつだ。
ドアを開けると、廊下には誰もいなかった。
外廊下の蛍光灯が白っぽい光を落としていて、左右に四戸ずつ並ぶドアはどれも閉まっている。エレベーターの表示を見ると、一階で止まったまま動いていない。階段の方向にも人の気配はなかった。
宅配便の間違いか、子供のいたずらか。そのくらいに思って部屋に戻った。引っ越したばかりで周囲の様子もわからないし、変に気にしても仕方がない。そう自分に言い聞かせて、その夜はそれで終わりにした。
翌日も、その翌日も、インターホンは鳴った。
時刻は毎回、二十三時ちょうどか、四分か五分のあたりだった。一度だけ、早めにドアの前に立って待ってみたことがある。二十二時五十五分から壁際に背をつけて、廊下の様子を確認できるよう少しだけドアを開けて待った。音はなかった。寒くてじっとしているのが辛くて、二十三時を数分過ぎたころに諦めて部屋に戻ろうとしたとき、背中越しに音が鳴った。
振り返ったけれど、廊下には誰もいない。
おかしいと思いながらも、機械の誤作動という説明を捨てることができなかった。インターホン本体が古くて、内部でショートでも起きているのかもしれない。管理会社に連絡しようかと迷いながら、そのまま数日が過ぎた。
転機になったのは、同じフロアの住人に声をかけられたことだった。
ゴミ捨ての帰り道、向かいの部屋の女性と鉢合わせた。四十代くらいで、引っ越しの挨拶のときに一度だけ会っていた人だった。
「最近、夜ちゃんと眠れてる?」
開口一番にそう言われて、少し驚いた。私が戸惑っていると、彼女は困ったような顔で続けた。
「あの部屋、インターホン鳴らない? 夜中に」
鳴る、と答えると、彼女は小さくため息をついた。
「そうか、やっぱり。前に住んでた子もそう言ってたから」
聞けば、私の前にその部屋に住んでいた女性も、同じ経験をしたのだという。最初の一週間は誤作動だと思って無視していたが、だんだん怖くなってきて、越してきてから二か月も経たないうちに出ていったと聞かされた。
「その前の人は?」と私は聞いた。
「三か月くらい住んでた男の人がいたけど、急に引き払っちゃって。理由は聞いてないけど、やっぱり夜中に変なことがあったって、管理会社に言ったみたいで」
じゃあその前は、と聞きかけて、私はやめた。聞かなくていい気がした。
その日の夜、時刻どおりにインターホンが鳴った。二十三時三分。いつもよりほんの少しだけ早かった。
ドアは開けなかった。
開けなかったからといって何かが変わるわけではなくて、鳴った後は静かになるだけだった。でも、ドアの向こうに何かが立っているかもしれないと思うと、モニターのないあのインターホンが急に怖くなった。
管理会社に電話したのは、その翌日だった。インターホンが毎晩誤作動しているようだと伝えると、担当の男性は少し間を置いてから「確認します」と言った。その口調がわずかに引っかかったけれど、気のせいかもしれないとも思った。
点検に来たのは三日後で、作業員の人がインターホンの内部を開けて確認してくれたが、「特に問題は見当たらない」と言った。配線も問題ない、電池切れでもない、外部からの電波干渉が起きやすい機種でもないという話だった。
「念のため本体を交換しましょうか」と言われたので、お願いすることにした。
新しいインターホンはカメラつきのものになった。液晶モニターが玄関わきについていて、外に来た人の顔が確認できる。これで少し安心できると思った。
新しい機械になった最初の夜は、何も鳴らなかった。
翌日も、その翌日も、静かだった。ようやく落ち着いたと思い始めた四日目の夜、二十三時ちょうどに、インターホンが鳴った。
今度はモニターがある。
立ち上がって画面を見た。
映っていたのは、廊下だけだった。
無人の廊下。蛍光灯の白い光。閉まったドアたち。誰もいない。
でもインターホンは確かに鳴っていた。
押しボタン式のインターホンはドアの外に取りつけてある。誰かが押さなければ鳴らない。モニターには外の廊下が映っている。そこに誰もいない。なのに鳴っている。
論理的に説明がつかなかった。
私はそのままモニターを見続けた。映像は静止画のようにただそこにあって、廊下のどこにも動くものがない。蛍光灯がわずかにちらついていたけれど、それだけだった。
ドアは開けなかった。
翌朝、隣の部屋の住人に廊下で会ったとき、昨夜のことを話した。するとその人は少し表情を曇らせて、「私も、昔一回だけ見たことがある」と言った。
何を、と聞くと、「廊下に立ってる人を」と答えた。
どんな人か聞くと、「よく見えなかった。でも、背が低い感じで、こっちを見てた」と言う。
そのときどうしたのか聞いたら、「見なかったことにした」と彼女は言った。それきり話は終わった。
それから一週間、私は毎晩二十三時にインターホンが鳴るのを経験した。ある夜はモニターを見た。ある夜は見なかった。モニターを見た夜は、いつも廊下には誰もいなかった。ただの廊下が映るだけだった。
でも、ある夜だけ違った。
廊下の奥、階段の入り口の暗がりに、何かが映っていた。形はよくわからない。影のようなもので、壁に溶け込むようにして、そこにある。見ようとすると焦点が合わない感じがして、でも確かにそこには何かがあった。
私は画面から目を離した。
もう一度見る気になれなかった。
そのまま布団をかぶって、目を閉じて、鳴り終わるのを待った。
インターホンはしばらく鳴ってから、止まった。
翌朝、何事もないように朝が来た。
私はまだその部屋に住んでいる。引っ越す理由を職場には言えないし、そもそも次の部屋を探す気力もまだない。
毎晩二十三時に鳴るインターホンには、慣れた、と言えば嘘になる。ただ、慣れに似た何かに包まれてきたとは思う。鳴るとわかっていれば、鳴っても驚かない。
でも最近、一つだけ気になっていることがある。
先日、管理会社から書類が届いて、部屋の契約関係のことが書いてあったのだが、その中に前の入居者欄というのがあって、過去に何人かの名前が並んでいた。個人情報だから本来は見せないはずなのに、なぜか印刷されていた。
名前は読まなかった。読もうとして、やめた。
でも何となく件数を数えてしまった。
私の部屋に、十年ほどの間に入居した人の数が、その書類には記されていた。
多すぎると思った。
十年で、これほど多くの人が出入りする部屋というのは、普通ではない。
私は書類を引き出しの奥にしまって、今日も変わらない夜を過ごしている。二十三時が近づくと、なんとなく身が固くなる。
モニターは、最近あまり見ないようにしている。
見ても誰もいないし、見ても誰もいない。
だから、もし何かが映っていたときのことを、考えたくないから。


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