引っ越したアパートの洗面台の鏡に、ある日から「ずれ」が生じていることに気づいた。映っているはずのものが映らず、映っていないはずのものが映っている。
引っ越し先のアパートが気に入った理由は、洗面台の鏡が大きかったからだ。
バス・トイレ別で、洗面所だけ独立している間取り。横幅が八十センチほどある、縁なしの鏡が壁一面に貼ってあって、部屋全体を広く見せていた。これだけ大きな鏡があれば、朝の身支度もしやすいし、着替えチェックもできる。それだけのことだ。それだけのことで、私はその部屋に決めた。
引っ越してきたのは春先で、仕事の都合でひとり暮らしを始めたのが三十二歳のときだった。実家からそこまで遠くない、県境に近い静かな住宅街だ。周囲は古い一戸建てが多く、私が入ったアパートだけが少し浮いているような、そういう雰囲気の場所だった。
最初の一ヶ月は何もなかった。
鏡は鏡として、ただそこにあった。毎朝六時半に起きて洗面台に立ち、顔を洗って歯を磨いて、鏡の前でコンシーラーを塗る。それだけの話で、怖いものは何もない。
おかしいと思い始めたのは、六月の終わりごろだった。
その日も朝の身支度をしていて、いつものように鏡を見ていた。顔を洗い終えて、タオルで拭きながらふと鏡に目をやったとき、なんとなく、違和感を覚えた。
なんだろう、と思ったが、すぐにはわからなかった。洗面所の中は特に変わっていない。棚の上のスキンケア用品、タオルハンガーにかけたハンドタオル、壁に貼ったカレンダー。全部、いつも通りだ。私の顔も、いつも通りだ。
でも、なんかおかしい。
三分ほど鏡を眺めていて、ようやく気づいた。カレンダーの文字が読めた。
鏡に映ったカレンダーは、普通なら左右が反転して読みにくいはずだ。六月と書いてあれば、「月六」のように見えるはずだ。でもそのとき私が見たカレンダーは、正しい向きで「六月」と読めた。
慌てて振り返った。カレンダーは壁にある。私から見て左の壁に貼っていて、鏡から見ると右に映るはずで、文字は当然反転して見えるはずだった。でも実際に振り返ってカレンダーを見ると、それは正しく「六月」と書いてある。
もう一度鏡を見た。鏡に映った「六月」も、正しい向きで読めた。
気のせいかな、と思った。疲れているのかもしれない、と思った。そういうことにして、その日は出勤した。
次に気になったのは、一週間ほど経ってからだ。
夜、お風呂上がりに洗面台で髪を乾かしていて、ドライヤーを持った右手を鏡の中で確認したとき、鏡の中の私もドライヤーを右手で持っていた。
普通に聞こえるかもしれないが、そうじゃない。鏡の中の自分は、こちら側から見ると左右が反転するはずだ。つまり私が右手でドライヤーを持てば、鏡の中の私は左手で持っているように見える。それが鏡の基本的な仕組みだ。
でも鏡の中の私は、右手で持っていた。私と同じ向きで、同じ手で。
声が出なかった。ドライヤーを止めて、しばらく鏡を見つめた。鏡の中の自分も、ドライヤーを止めてこちらを見ている。表情も同じだ。目を細めれば、鏡の中でも目を細める。首を傾ければ、傾ける。動きは完全に連動している。でも手が、反転していない。
翌朝もう一度確認した。カレンダーは、反転していた。正しく反転して、「月六」に見えた。右手を上げれば鏡の中では左手が上がった。すべて普通だった。
私は混乱した。
夢だったのかと思った。疲れで頭がおかしくなっていたのかと思った。でも覚えているのだ。あのドライヤーを持った右手が、鏡の中でも右手だったことを。
それ以来、鏡が少し怖くなった。でも使わないわけにもいかないので、毎日見続けた。
七月に入ってから、また何かが変わった。
鏡に映る背景が、少し違う気がするのだ。洗面所の壁は白だ。タイル張りではなく、薄いクリーム色に近い白のクロスが貼ってある。でも鏡に映る壁は、ときどき少し黄色みが強くて、まるで古い和紙みたいな色に見える。電球の色のせいかな、と最初は思った。昼間に確認しても、やっぱり微妙に違う気がする。
気になって、スマートフォンで鏡を撮ってみた。写真に撮れば、客観的にわかると思ったからだ。
撮った写真を確認すると、鏡に映った壁の色は、背後の実際の壁と同じ色をしていた。写真では違いがわからない。でも目で見ると、違う気がする。そのズレが、妙に気持ち悪かった。
八月の初め、友人が遊びに来た。
同じ職場の子で、引っ越し祝いに来てくれた。部屋を一通り見てもらったあと、洗面所も見せた。友人は「鏡でかいね」と言って、自分の顔をあれこれ確認し始めた。
そのとき私は、友人の背中越しに鏡を見ていた。
友人が映っている。私も映っている。洗面所の中が映っている。全部普通だ、と思って、でもそこで止まった。
私の映り方が、変だ。
友人は普通に映っていた。左右が反転していて、右を向けば鏡の中では左を向く。それは正常だ。でも私は、鏡の中でも同じ向きで立っていた。友人の右隣に立っているのに、鏡の中でも友人の右隣にいた。普通なら、左右が入れ替わるはずなのに。
「ねえ」と言いかけて、止まった。
友人に聞いて、もし何も変じゃないと言われたら。それはそれで怖い気がした。でも、一人で抱えているのも限界だった。
「この鏡、なんか変に見えない?」
友人は鏡を見ながら首を傾けた。「変?どこが?」
「映り方が、なんか……ちょっと変な気がして」
友人はしばらく自分の右手を上げたり左手を上げたりして確認していた。そして「普通じゃない?」と言った。
「そうだよね」と私は言った。
その夜、友人が帰ったあとで、もう一度鏡の前に立った。右手を上げた。鏡の中の私も、右手を上げた。
やっぱり反転していない。
私はじっと鏡を見た。鏡の中の自分も、じっとこちらを見ている。表情は同じだ。呼吸も同じ速さで、肩が上下する。でも手が、違う。
それから気になって調べ始めた。引っ越し前にこの部屋に住んでいた人の話、この建物の話。不動産屋に聞いても「特に何も」とは言われたが、近所の古い雑貨屋のおばさんに雑談ついでに聞いてみると、少し表情が変わった。
「あのアパート、昔は一軒家が建ってたんだけどね」と彼女は言った。「壊してアパートにしたのよ。でもなんか、住んでる人がよく入れ替わるって聞いてた」
「どんな理由で?」
「さあ。引っ越す理由なんて聞かないでしょう、普通」
それだけだ。それ以上の話は出てこなかった。
今も、私はあの部屋に住んでいる。
鏡は毎朝使う。毎朝見る。ときどき反転していて、ときどき反転していない。何がトリガーになっているのか、いまだにわからない。写真に撮ると、撮ったそのときの状態が記録されるが、反転しているときも、反転していないときも、写真を見直すと必ず「正しく反転している」映像になっている。
つまり、写真には残らない。
先週末、洗面所の鏡をもう一度じっくり眺めていて、気づいたことがある。鏡の縁、というか、正確には鏡と壁の間のわずかな隙間のことだ。鏡は壁に直接貼られているのだが、右端の下あたりだけ、ほんの少し浮いている部分がある。最初からそうだったのか、最近になってそうなったのか、正直わからない。
そこから、向こう側は見えない。暗いだけだ。
でも懐中電灯を当てて覗いてみると、光が反射した。鏡の裏側が光を返した、というより、もう一枚、何かがある気がした。
確認するために鏡を剥がそうと思ったが、賃貸だから勝手にはできない。不動産屋に相談しようか迷って、でも「鏡が変な気がして」なんて言っても信じてもらえないと思って、まだ連絡していない。
最後に書いておく。
今朝、洗面台に立ったとき、鏡に映った自分と、数秒だけタイミングがずれた。私が顔を上げるより少し前に、鏡の中の私が顔を上げた。ほんの一秒かそこら。でも確かに、先に動いた。
夢かもしれない。寝ぼけていたのかもしれない。ただ、あの鏡の中の自分が私より先に顔を上げて、こちらを見た瞬間の目が、すごく、懐かしそうな顔をしていた。
会いに来た、みたいな顔だった。

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