毎朝、テーブルの椅子が一脚足りなかった

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一人暮らしのはずのアパートで、毎朝ダイニングの椅子が一脚だけ消えていた。最初はただの不注意だと思っていたが、椅子が戻るたびに、部屋の中の「ルール」が少しずつ書き換えられていくような気がしてならなかった。

去年の春に、県境の町へ引っ越してきた。

理由はシンプルで、職場まで電車一本だったこと、家賃が安かったこと、それだけだった。築二十年を超えているとはいえ内装は綺麗にリフォームされていたし、二口コンロのキッチンも、日当たりのいい南向きの窓も、一人暮らしには十分すぎる条件だった。

部屋の中でいちばん気に入っていたのは、ダイニングに置いたテーブルセットだった。実家から持ち出してきた古い木製のテーブルと、それに合わせて四脚並んだ椅子。一人暮らしに椅子が四つも要るかと母に笑われたけれど、なんとなく手放せなかった。子供の頃から、朝ごはんを食べながら家族四人でそのテーブルを囲んでいた記憶があって、それが妙に懐かしかったのかもしれない。

おかしなことに気づいたのは、引っ越してきて二週間ほど経った、四月の終わりごろだった。

その朝、いつものようにコーヒーを淹れようとキッチンに立って、何気なくダイニングの方を振り返ったとき、なんとなく違和感があった。うまく言葉にできないのだけれど、テーブルの周りがすっきりしているような、妙に広く見えるような、そんな感覚だった。

見直してみたら、椅子が三脚しかなかった。

テーブルの正面に一脚、右側に一脚、左側に一脚。どう数えても三つ。いつも四つ並んでいるはずなのに、一つ足りない。

最初は自分が動かしたのだと思った。荷物の整理をしていて邪魔になって、クローゼットの前にでも置いたんだろう、と。でも部屋中を見回しても椅子はない。玄関にも、寝室にも、クローゼットを開けてみても、どこにも見当たらなかった。

結局、三十分近く探し回った末に、ベランダを確認したら出てきた。窓の外、ベランダの端に、ひっそりと一脚だけ置かれていた。自分では到底記憶にないことだったけれど、夜中に寝ぼけて動かしたのかもしれないと思うことにして、そのままテーブルに戻した。

それが最初だった。

次の異変は四日後。また朝起きて、椅子が三脚になっていた。今度は探すのに時間をかけず、まずベランダを確認した。やっぱりそこにあった。同じ場所、同じ向きで、ちょこんと一脚だけ置かれていた。

さすがに少し気味が悪くなってきた。施錠は毎晩確認していたし、ベランダへ出るための掃き出し窓も閉めて鍵をかけている。自分が夜中に無意識で椅子を運んでいるとしたら、それはそれで怖い話だし、外から誰かが侵入して椅子を動かしているとしたら、もっと怖い話だった。

念のため、管理会社に連絡してみた。「施錠の不具合があるかもしれないので確認してほしい」と言うと、二日後に業者が来て、玄関ドアも窓も問題ないと言われた。「気になるなら補助錠をつけてもいいですよ」と言われて、そうすることにした。ベランダの掃き出し窓に、外からは絶対に開けられない棒状のロック補助具を差し込んで、安心して眠りにつくようにした。

それで一週間ほどは、何も起きなかった。

椅子は毎朝四脚、きちんとテーブルを囲んでいた。補助錠の効果なのか、それとも最初からただの自分の寝ぼけ行動だったのか、どちらにしても収まってよかったと胸をなでおろした。

異変が再び始まったのは、五月の半ばを過ぎたころだった。

朝起きたら、また椅子が三脚。ベランダを確認する。やっぱり一脚だけある。でも、おかしかった。補助錠はきちんとかかったままだった。棒を外さないと開かないはずの窓が、閉まったまま、施錠されたまま、それでも椅子はベランダにあった。

どういうことなのか、まったく意味がわからなかった。

その日はさすがに怖くて、職場の同僚に相談した。彼女は怪談が大好きで、こういう話を聞かせると目を輝かせる人だった。話を最後まで聞いてから、「それ、もしかして誰かが部屋の中にいるんじゃないの」とさらっと言ってのけた。笑えなかった。

「部屋に入る痕跡がないなら、最初から入ってるってこと、あるよ。押し入れとか、床下とか」

冗談でしょと笑い飛ばそうとしたけど、その夜、帰宅してから部屋中のクローゼットと押し入れを開けてまわった。何もいなかった。床下点検口は、玄関横のフローリングの一部に小さなハッチがついていたけれど、分厚いホコリが積もっていて、最近開けた形跡はなかった。

何もいない。何もない。ただ、椅子だけが消えて、ベランダに出てくる。

気持ちを落ち着かせるために、日付を記録することにした。椅子がなくなった日、見つかった場所、補助錠の状態、そういうことをスマホのメモに書き残していくことにした。記録することで、何かパターンが見えてくるかもしれないと思ったし、もし誰かに相談するときの証拠にもなると思ったから。

記録をつけ始めてわかったことが、一つあった。

椅子がなくなるのは、決まって私が仕事から遅く帰った日の翌朝だった。残業したり、飲み会があったりして、帰宅が夜の十時を過ぎた日の次の朝、必ずと言っていいほど椅子が一脚ベランダに出ている。逆に、定時で帰って早めに寝た日は、椅子はそのままだった。

それがわかってから、奇妙に思うようになった。

まるで、何かが「待っていた」みたいだった。私が長く留守にした夜、誰かがそのテーブルに座って、朝になる前にベランダへ出る。そんなイメージが頭を離れなくなって、夜中に何度も目が覚めるようになった。

眠れない夜が続いたある晩、思い切ってダイニングにスマートフォンを立てて、タイムラプス録画をかけたまま眠ることにした。何かが映れば証拠になる、映らなければ少しは安心できる、そう思ったのだ。

翌朝、恐る恐るスマートフォンを確認した。

映像は夜の間ずっと暗く、動くものは何もなかった。でも、朝の五時過ぎ、薄明かりがカーテン越しに漏れ始めたころ、録画が途切れていた。ちょうど五時十四分から五時三十一分の間、十七分間だけ動画が飛んでいた。バッテリー切れでも、アプリのエラーでもなく、録画ファイルの中にぽっかりと穴が開いていた。そしてその前後を見ると、四脚あった椅子が途切れた後には三脚になっていた。

消えた十七分の間に、何かが起きていた。

その日、私は管理会社に電話して、引っ越しの相談をした。事情を話したら「そういうお話は時々あります」と妙に慣れた様子で言われて、それがまた怖かった。時々あります、ってどういう意味なのか聞き返したかったけれど、なぜかそれ以上聞けなかった。

引っ越しを決めて荷物をまとめていた最後の日、テーブルと椅子をレンタカーに積み込んだ。四脚、きちんと四脚ある。搬出の手伝いに来てくれた友人が、椅子を持ち上げながら「これ、古いね」と言った。

「実家から持ってきたやつなの。子供の頃から使ってた」

「四脚あるけど、一人暮らしに全部いるの?」

「いらないけど、なんか手放せなくて」

友人は笑いながら椅子をトラックに積んだ。私も笑おうとしたけど、うまくできなかった。

その夜、新居で荷ほどきをしながら、ふと思ったことがある。

引っ越し前の部屋で、椅子が消えるようになったのは、私が一人暮らしをはじめてからすぐのことだった。でも、あのテーブルと椅子は実家から持ち出してきたものだ。子供の頃から家族四人で使っていた、そのセット。

一つだけ、どうしても気になることがある。

私は三人家族だった。父と母と、私の三人。だから実家のテーブルに並んでいた椅子は、ずっと三脚だったはずなのだ。引っ越す前に荷物をまとめたとき、なぜ四脚あったのか、そのことを私はずっと考えないようにしていた。

今の部屋でも、椅子は四脚ある。

今のところ、なくなってはいない。

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