毎朝、鏡の前に立っていた時間の話

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引っ越したアパートの洗面所で、毎朝同じ時刻に感じる「誰かがいた後」の気配。最初は小さな違和感だったが、それはやがて、部屋の中に少しずつ何かが積み重なっていく恐怖へと変わっていった。

去年の春、私は仕事の都合で、県をまたいで引っ越しをした。

新しい職場から電車で三十分ほどの場所にある、築二十年ほどのごく普通のアパートだった。二階建て、八世帯。角部屋の二階。日当たりも悪くないし、周辺も静かで、最初は気に入っていた。

問題が始まったのは、引っ越してから二週間ほど経った頃のことだと思う。

その日の朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。目覚ましが鳴る前で、時計を見ると六時十五分だった。なんとなく眠れなくて、洗面所に顔を洗いに行くと、鏡が少し曇っていた。

最初はそれだけだった。ただ、鏡が曇っていた。

浴室と洗面所は隣り合っていたし、前の晩にシャワーを使えば翌朝まで湿気が残ることもある。そう思って、タオルで鏡を拭いて、それで終わりにした。

でも次の朝も、鏡は曇っていた。

前の晩にシャワーを使ったかどうか、記憶を辿ると、その日は使っていなかった。夜遅くまで仕事の準備をしていて、シャワーは翌朝に済ませようと思っていたのだ。それでも鏡は曇っていて、うっすらと湿っていた。

換気扇の調子が悪いのかもしれない、と思った。古いアパートだし、そういうこともあるだろう。管理会社に連絡しようかと思いながら、忙しさにかまけてそのまま忘れてしまった。

鏡の曇りに気づくのは、いつも六時十五分から二十分の間だった。

これに気づいたのは、引っ越しから一ヶ月ほど経った頃だ。毎朝同じくらいの時刻に起きる習慣がついてきて、洗面所に行くと鏡が曇っている、というのがルーティンになっていた。そのうち私は、なんとなくその時刻を確かめるようになっていた。六時十三分、六時十七分、六時二十分。前後はあるが、おおむね同じ時間帯だった。

シャワーを使っていない夜の翌朝も、曇りは変わらなかった。

ある朝、鏡を拭こうとして、ふと手が止まった。曇りの中に、なんとなく形のようなものが見えた気がしたのだ。指で描いたような跡、とまでは言えない。でも、鏡の真ん中あたりに、ぼんやりとした縦長の輪郭のようなものがあった。

人の形、とは言いたくない。でも、そう見えた。

その日は急いでタオルで拭いてしまって、あまり深く考えないようにした。仕事中も頭の片隅に引っかかってはいたけれど、帰り道にはほとんど忘れていた。

次に変化に気づいたのは、洗面台の石鹸のことだった。

私はポンプ式の液体石鹸を使っていて、引っ越した時に新しいものを買い、洗面台の左隅に置いていた。ところがある朝、それが右側に移動していた。

最初は自分で動かしたのだと思った。無意識にそうしたのかもしれない。でも、右側に置くと蛇口の邪魔になるので、私はまた左に戻した。

翌朝、また右側にあった。

こういうことが、三度続いた。三度目の朝に右側に置かれた石鹸を見て、私は少し長い間、そこに立ったまま動けなかった。自分で動かした記憶はない。寝ぼけて、ということも考えたが、それにしても三度同じ方向に動いているのは妙だった。

その週末、私は洗面所をくまなく確認した。換気扇の動き、排水口の状態、窓の隙間。特に異常は見当たらなかった。浴室の窓は二重ロックにしていたし、玄関の鍵も変えてもらっていた。誰かが入ってくるような隙間はなかった。

石鹸は、それ以降も動いた。

右側、という法則があるわけでもなく、ある日は奥の方に下がっていて、ある日は蛇口のすぐそばに置かれていた。まるで誰かが毎朝そこで手を洗い、何気なく石鹸を置く場所が日によって違う、そういう感じだった。

私はスマートフォンで洗面所の隅を撮影して、就寝前の状態を記録するようにした。翌朝の様子と比べるために。

最初の三日間は、石鹸の位置は変わらなかった。記録を始めたことで、何かが変わったのかと思った。でも四日目の朝、石鹸は数センチ手前に動いていた。写真と見比べると、明らかだった。

その日から、変化の種類が増えた。

歯ブラシを立てているコップの向きが変わっていた。元々は取っ手を右に向けて置いていたが、ある朝、取っ手が正面を向いていた。タオル掛けにかけたタオルが、翌朝にはきっちりと端を揃えて折り畳まれていた。私はそんな折り方をしない。排水口の蓋が、微妙にずれていた。

どれも小さなことだった。どれも一つひとつは、見間違いや自分でやったことの忘れで済ませられる範囲だった。でも、積み重なってくると、そうは思えなくなってくる。

気持ち悪いのは、それらがすべて「整っている」ことだった。

乱されているのではなく、整えられている。石鹸はきれいな場所に置かれ、タオルは丁寧に折られ、コップは正面を向いている。荒らされているのとは違う。誰かが、毎朝、洗面所を使って、片づけて、出ていく。そういう印象だった。

私は管理会社に電話した。鍵の交換をもう一度確認したいと伝えると、担当者はすぐに対応してくれた。鍵は問題ないと言われた。マスターキーの管理も徹底しているという説明だった。

念のため、室内に簡易カメラを設置しようかとも考えた。でも洗面所にカメラを向けるのは、なんとなく嫌だった。理由はうまく言えない。見えてしまったら、という怖さだったかもしれない。

ある夜、私は眠れなくて、午前二時頃に洗面所に水を飲みに行こうと廊下に出た。

廊下の電気をつける前に、洗面所のドアの隙間から、かすかに光が漏れているのが見えた。

洗面所の電気は消して寝たはずだった。

私はしばらく廊下に立ったまま、動けなかった。光は安定していて、明滅もせず、ただそこにあった。一分ほど待って、ゆっくりとドアを開けた。

電気はついていた。ただそれだけで、洗面所には誰もいなかった。鏡には曇りもなく、石鹸もコップも、昨日私が置いた通りの場所にあった。

私は電気を消して、部屋に戻った。それ以上、何も確かめなかった。

翌朝、六時十八分。

鏡は曇っていた。

石鹸は、蛇口のそばに移動していた。タオルは丁寧に折り畳まれていた。そしてコップの中に、私のもの以外の歯ブラシが、一本、立っていた。

青い、使い込まれた歯ブラシが。

私はそれを確かめて、コップを持ったまま、長い間そこに立っていた。

歯ブラシは捨てた。その日のうちに、不動産屋に電話した。事情は話さず、退去の意思だけを伝えた。

引っ越しを終えて、今の部屋に移ってから三ヶ月が経つ。

新しい部屋の洗面所は明るくて、鏡も曇らない。石鹸も動かないし、タオルも折り畳まれない。歯ブラシは私のものだけがコップに立っている。

それはわかっている。

ただ、毎朝六時十五分頃になると、なんとなく目が覚めてしまう。そして洗面所に行く前に、少しだけ、間を置いてしまう。

ドアを開けるのが、今でも少し、怖い。

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