毎朝、隣の部屋の電気がついていた

築古のアパートに引っ越した夜から、使っていないはずの隣室に明かりが灯り続けた。管理人は「あの部屋は長いこと空き部屋だ」と言ったのに、ドアの隙間からは、確かに人の気配がした。

その部屋に越してきたのは、三月の終わりだった。

仕事の都合で急に引っ越しが決まって、物件を選ぶ時間もなく、不動産屋に勧められるままに決めた。県境に近い、どこの町とも言いにくい場所にある、三階建てのアパートだ。築年数は四十年近く、外壁の塗装は浮いていて、共用廊下の蛍光灯はいくつか切れかけていた。それでも家賃は安く、駅まで自転車で行ける距離だったので、そこにした。

部屋は三階の角部屋、三〇一号室。隣の三〇二号室は、引っ越し初日から雨戸が閉まっていた。

最初にそれを気にしたのは、入居した翌朝のことだ。

荷ほどきで疲れて、夜の十一時には寝てしまった。明け方の四時過ぎに目が覚めて、トイレに起きた。廊下に出ると、隣の部屋のドアの下から、細い光の線が漏れていた。

ああ、住人がいたんだな、と思った。雨戸が閉まっているから夜型の人なのかもしれない、くらいにしか思わなかった。そのままトイレを済ませて、また寝た。

それが毎朝続いた。

起きる時間はだいたい六時から七時のあいだで、毎日ではないが、夜中にトイレに起きることもあった。気がついたのは、隣の三〇二号室の電気が、必ず夜明け前から早朝にかけてついている、ということだ。昼間に廊下を通ると、ドアの下に光はない。夕方も夜の早い時間もない。でも、深夜から夜明けにかけての時間帯だけ、必ず薄い光が漏れていた。

夜行性の人か、早起きの人なのだろうと思った。ただ、一度も物音を聞いたことがなかった。生活音というのは、意識していなくても隣から漏れてくるものだ。テレビの音、足音、水道を使う音。でも三〇二号室からは、何も聞こえなかった。

入居して二週間ほど経ったころ、管理人のおじいさんと廊下で顔を合わせた。一階に住んでいる、七十を過ぎたくらいの小柄な男性で、名前は確認していなかった。

「隣の方、夜型の方ですか」と聞いてみた。「いつも深夜に電気がついているみたいで」

管理人は首をかしげた。「隣? 三〇二はずっと空き部屋ですよ。もう二年近く、誰も入っておらん」

「でも毎朝、ドアの下から光が漏れているんですよ」

管理人は少し間を置いてから、「電気が切れてないのかな、ちょっと見てみます」と言った。それきり、その話は終わった。

翌日の早朝、また光があった。

その日の午後、管理人と廊下で会ったので「まだついていますよ」と言ったら、「あれ、見ときましたよ。電気は切れてましたよ、スイッチも落ちとった」と言った。首をひねりながら「古い建物だから、どこかで漏電でもあるんかな」とつぶやいていた。

電気が切れていて、スイッチも落ちているのに、光が漏れている。

その言葉の意味を、ちゃんと考えたのは夜になってからだった。眠れなくなって、ベッドの中で天井を見ながら、いろいろな可能性を並べてみた。管理人の見間違い。別の部屋の光が回り込んでいる。廊下の非常灯の反射。どれも、しっくりこなかった。

次の朝、夜明け前に目が覚めたとき、わたしはドアを開けて廊下に出た。

三〇二号室のドアの下には、やはり光があった。

廊下の非常灯はずいぶん離れた場所にあり、その光が三〇二号室のドアの下まで届くはずはなかった。ドアの素材は木製で、隙間もほとんどないはずなのに、はっきりとした光の筋が出ていた。

耳を澄ませた。

何も聞こえない。

近づいてみた。ドアに耳を当てようとして、手を伸ばしかけたとき、指先がドアノブに触れた。ひやりとした感触があった。それ自体はおかしくない。でも、ドアノブの温度が、外気より明らかに低かった。真冬の窓ガラスに触れたときのような、あの底冷えする冷たさだった。三月の終わりとはいえ、廊下はそこまで寒くはなかった。

そのまま手を引いて、自分の部屋に戻った。

それから数日、わたしは隣の部屋のことを考えながら過ごした。気になるけれど、どうすることもできない。管理人に話してもはっきりした答えは返ってこない。部屋の外からわかるのは、光と、冷たいドアノブだけだ。

変化が起きたのは、入居から三週間を過ぎたあたりだった。

ある朝、廊下に出ると、三〇二号室のドアが数センチ開いていた。

蝶番の側ではなく、ドアノブの側が、わずかに浮いていた。内側からの光が、その隙間から直接漏れ出ていた。電球の白い光ではなく、もっと黄色みがかった、古い蛍光灯のような光だった。

わたしは動けなかった。

開いている。空き部屋のドアが、内側から開いている。

廊下に人の気配はなかった。時刻は朝の五時四十分ごろ。管理人を呼ぶには早すぎる。

三十秒ほど立ち尽くして、そっと近づいた。ドアの隙間から中を覗こうとしたとき、隙間がさらに広がった。ゆっくりと、音もなく、内側に向かって開いていった。

中が見えた。

六畳ほどの和室で、畳は焼けて茶色くなっていた。窓は雨戸が閉じていて暗く、部屋の中央に裸電球が一つ下がっていた。それが点灯していた。その下に、古い座卓があって、何かが置いてあった。

遠くてよく見えなかった。

もう一歩踏み込もうとした瞬間、ドアがまた動いた。今度は逆方向に、ゆっくりと閉まっていった。最後の隙間が消える直前、電球の光が揺れた。

ばん、と静かな音を立てて、ドアは閉まった。

わたしはしばらく廊下に立っていた。

その日の夕方、管理人に話した。ドアが開いていたこと、中に電球がついていたことを伝えた。管理人は黙って聞いてから、「鍵を確認してみます」と言った。「三〇二の鍵は、わたしが持っているだけのはずだから」と。

翌朝、また光はあった。ドアは閉まっていた。

管理人から後日聞いた話では、三〇二号室の鍵は管理人室にあり、施錠されていた。内側から解錠した形跡もなかった、とのことだった。部屋の中を確認したら、電球は切れていた。座卓のことを伝えると、管理人は少し間を置いてから「前の入居者が置いていったものが、まだあるんですよ」と言った。

「前の入居者は、いつまで住んでいたんですか」

「二年ほど前に、急に荷物を置いて出て行かれて」管理人は言葉を選ぶように続けた。「連絡もつかなくなりましてね。荷物もそのままにしてあるんですよ」

「どんな方だったんですか」

「若い方でした。男性で、あなたくらいの年頃だったかな」

それ以上は聞けなかった。

わたしがその部屋を出たのは、それから二週間後だった。理由は、光が隣室のドアだけでなくなったからだ。ある朝、目を覚ますと、自分の部屋のドアの下に、同じ色の光が差し込んでいた。廊下からではなかった。光の向きが逆だった。自分の部屋の中から、廊下に向かって光が漏れていた。

天井の電気は消えていた。スイッチも落としてあった。

なのに、部屋の床の、ドアに近い一角だけが、ぼんやりと黄色く光っていた。

わたしはその場所に近づかなかった。布団を頭からかぶって、夜が明けるのを待った。

朝になると、光は消えていた。

その日のうちに管理人に退去を申し出て、翌週には出た。荷物を運び出すあいだ中、三〇二号室のドアを見ないようにしていた。でも一度だけ、視線が吸い寄せられた。

ドアの下に、光はなかった。

その代わり、ドアノブの向きが、前と違っていた。最初に触れたとき、わたしはドアノブに手を伸ばして触った。ノブは右側にあった。それは普通のことだ。でも荷物を出しながらちらりと見たとき、ノブは左側にあった。

建て付けが変わったのかもしれない。見間違えたのかもしれない。

でも一つだけ、ずっと気になっていることがある。

管理人が言っていた。前の入居者の荷物がそのまま置いてある、と。座卓が見えた、とわたしが話すと、管理人は「前の入居者が置いていったものが残っている」と言った。

荷物はそのままだと言っていた。でも管理人は、部屋の中を確認した、とも言っていた。

荷物があったのなら、電球も切れていたのなら、座卓の上に置いてあったものは何だったのか。あの薄暗い部屋の中で、座卓の上に乗っていたもの。遠くてよく見えなかった、と思っていたが、今になって思い返すと、見えていたのかもしれない。

形があった。

小さくて、丸くて、こちらを向いていた。

それが何だったのか、わたしはまだ考えないようにしている。

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